今回はロックミュージシャン・氷室京介(ひむろ きょうすけ)さんの若い頃についてみていきましょう。
氷室京介さんの若い頃のイケメン画像や、中学で喧嘩に目覚めたという情報についても調べてみました。
氷室京介の若い頃のイケメン画像
「KISS M」Eや「鏡の中のマリオネット」などのヒット曲で知られるロックシンガー・氷室京介さん。
BOØWYの後期からソロになった初期は氷室京介さんの全盛期といわれており、そのイケメンっぷりは誰もが知っているところでしょう。
氷室京介さんの本名は寺西修(てらにし おさむ)さんといい、芸名は1970年〜1972年に連載されていた”ワル”という漫画の主人公から引用しています。
京介という名前は響き的にかっこよかっただけのようです。
イケメンな氷室京介さんにぴったりの芸名ですよね!
BOØWYのヴォーカリストとしてデビュー後、6年の活動期間をもって解散し、ソロのミュージシャンとして活躍しました。
現在は耳の不調によって無期限活動休止中ですが、その復帰を待ちわびているファンも大勢いることでしょう。
氷室京介は喧嘩最強だった
そんな氷室京介さんには数々の伝説があります。
それは「喧嘩最強伝説」です。
「ダメだよあんなの。路上のプロだもん」この発言は吉川晃司が氷室京介について語った時に放った一言。
この発言は吉川晃司がバラエティ番組に出演した時に言った言葉です。
吉川晃司と言えば自身も芸能界で喧嘩最強なのでは?と言われている人物、実際に公になっている武勇伝も多いのだが、そんな吉川晃司が発言した言葉である為に、氷室京介どんだけ強いねん!と皆んなが思ってしまうのです。
また、BOØWY時代に布袋寅泰さんが発言した「あの人がいたところは皆んなが危ないから遠回りしよう、みたいな感じで」という言葉も有名です。
布袋寅泰さんは氷室京介さんと地元が同じで、昔の氷室京介さんの印象を聞かれた際に「ただただ、怖いだけですよ」とも答えています。
よほど怖かったのでしょうね(笑)
高校卒業後、布袋寅泰さんは電話で氷室京介さんに呼び出され、新しく作るバンドに召集されたのですが、布袋寅泰さんは殴られるのではないか?と思ってひたすらおびえていたそうです。
しかしドタキャンするのもあとが怖いので、一発位殴られて済むくらいならいいかと思い、待ち合わせ場所まで行ったそうです。
ここまで布袋寅泰さんをビビらせるほど怖かった氷室京介さん。
過去には週刊誌に「殺人罪の前科がある」と掲載され(もちろんガセネタ)、氷室京介さんもライブMCで「殺人罪の氷室京介です」とネタにするほどでした。
中学で喧嘩に目覚める
氷室京介さんは過去にインタビューにて、中学時代にケンカに目覚めたことを語っていました。
母親に縫ってもらった学生服で中学校の入学式に出席しましたが、その制服のズボンがボンタンで、当時不良が履いていたものでした。
それに目を付けた上級生に校舎裏に呼び出されましたが、氷室京介さんは見事返り討ちにしたそうです。
これがきっかけで喧嘩に目覚め、高校入学後も毎日喧嘩しており、シャツはボロボロだったそうです。
氷室京介さん曰くケンカは強くないが、売られたら必ず買っていたそうです。
腕っぷしもさることながら、立ち向かっていく熱い男気のようなものを感じますね。
暴走族に加入していた
氷室京介さんは暴走族・ブラックエンペラー支部に加入していたという噂があります。
地元で昔暴走族をしていて、喧嘩をする為に遠征しに来たという噂でした。
その後氷室京介さんのライブMCでも、暴走族時代ここに来てましたと話していたとか。
つまり、暴走族に加入していたのは間違いないようですね。
氷室京介さんがどこの族だったかは不明ですが、族の中ではかなり上のポジションだったみたいですね。
音楽やってなかったら、ヤクザになっていた
「音楽やってなかったら、ヤクザになっていた」というのは、ラジオ番組でBOØWYのマネージャーが言っていた言葉です。
氷室京介さん自身もこの言葉のとおりだと言っており、本当に危なかったようです(笑)
ボウイ(当初は暴威)を最初に立ち上げたのが、ギタリストの布袋寅泰氏に声を掛けた氷室京介氏。
解散当時、人気絶頂だったBOØWYも、 結成したばかりの1981年の初ライブの観客数は、後にドラマーとして加入する高橋まこと氏【 63 】を含めても、たったの13人だけだったという。
また結成当初は、後に固定された4人メンバーでもベースを弾き続けた松井常松( 以前は恒松 )氏【 57 】と、後に脱退するサックス担当の深澤和明氏、リズム・ギター担当の諸星アツシ氏の6人編成だった。
氷室京介さんがBOØWYで成功して高崎に帰ってきた際、「高崎のゴミが誇りになって帰ってきた」と言われたそうです。
若い頃に手がつけられないほど破天荒だった氷室京介さんが更生するとは…音楽の力ってすごいですね!