今回は音楽プロデューサー、ピアニスト・(さかもと りゅういち)さんの若い頃についてみていきましょう。
坂本龍一さんの若い頃のイケメン画像や、幼少期~大学時代についてまとめてみました。
目次
坂本龍一の若い頃がイケメン
世界的に活動しているミュージシャンの坂本龍一さん。その音楽性は幅広く、クラシック音楽、民俗音楽、現代音楽などにも精通しています。
若い時は独特の色気があり、そのまなざしもどこかセクシーでイケメンと人気でした。
一見クールに見えますが、ふっと優しそうな表情をしますし、オーラが素敵ですね!
坂本龍一の幼少期がすごすぎる!
坂本龍一さんは本名で、父親は河出書房の編集者の坂本一亀さん(三島由紀夫、野間宏、中上健次などを担当)です。
母親は帽子デザイナーとして銀座の宝石商で働いていた坂本敬子さんです。
坂本龍一さんは幼少期からピアノを習っており、物心つく前からピアノと作曲の才能を発揮していたそうです。
その後、様々な人物との出会いで「天才坂本龍一」が確立されてきます。
ピアノに夢中になった幼少期~小学校時代
坂本龍一さんは幼少期に「世田谷幼児生活団」に入団し、3歳の時に情操教育の一環として初めてピアノに触れました。
そこで作曲した「うさぎのうた」が、人生で初めての作曲だったそうです。
その後、小学校に入学後、ピアノ好きの叔父さんの影響を受け、ピアノの音が好きになり、本格的にピアノを習うようになったそうです。
ちなみに、坂本さんの自宅にはピアノがなかったため、叔父さんの家に行ってピアノを弾かせてもらっていたそうで、そのついでに、叔父さんの膨大なコレクションのレコードを聴き、 両方の手を平等に使うバッハの曲が好きになったそうです。
こんな幼いころから音楽の才能を開花させてるなんてすごいですね!
中学はバスケットボールに夢中になるも、再びピアノへ
坂本龍一さんは10歳になると、ピアノ講師の徳山寿子先生に作曲を習うよう強く勧められたため、東京藝術大学教授の松本民之助さんから作曲を学びます。
当時坂本龍一さんは音楽の世界に強い関心があったわけではなく、中学入学後バスケットボールに夢中になり、作曲もピアノも辞めてしまいました。
しかし、その後半年ほど経過し、突如自分の心にポッカリ穴が空いたような虚無感に襲われたそうです。
最初はそれが何か分からなかったのですが、やがて、音楽から離れたせいだと分かったそうで、作曲の先生とピアノにの生に頭を下げて、もう一度習い始めることになったのでした。
坂本さんは、その当時を振り返り、そこから自分の気持ちが変わり、楽譜を買いにいって、同じ楽譜を半年くらい毎日毎日見ては師匠とし、ソナタを作ったりして音作りをまねし始めました。
ラジオ少年が、初めて、鉱石ラジオで音を出した時のような喜びに似ていたでしょうね。と、明かされています。
ちなみに中学2年生の坂本龍一さんが夢中になった作曲家は、ドビュッシーとラヴェルでした。
高校でピアノのレッスンを辞め、好きな曲に没頭
坂本龍一さんが開始したピアノレッスンは、エチュード(練習曲)ばかりだったため、それが本当に嫌だったそうです。
高校生になるとレッスンをズル休みするようになってしまい、最終的に破門となってしまいます。
それ以来坂本龍一さんはは、もう練習しなくてよいという解放感から、好きな音楽だけを何時間も弾くことに没頭します。
学生運動に身を投じる
坂本龍一さんは好きな音楽に没頭する一方、学園紛争の真っ最中だった当時、高校時代から学生デモに参加します。
東京藝術大学に進学したのち、現代音楽家にもかかわらず尺八や琵琶など邦楽器を使用する作曲家の武満徹さんに、「右っぽい(右翼っぽい)」とう印象を受けます。
このことから武満徹さんのコンサート会場に抗議のビラを2回も撒きに行きます。
2回目の時はご本人に「これを書いたのは君か」と言われ、気の弱かった坂本龍一さんは、「何で和楽器を取り入れたんでしょうか?」と、口ごもり気味にたずねます。
その後、30分くらい立ち話をすると、坂本龍一さんはすっかり、武満徹さんの話に引き込まれ、少々屈折した尊敬を抱くようになります。
小泉文夫の「民族音楽」研究の講義に衝撃を受ける
その後坂本龍一さんは武満徹さんの影響で、伝統的な音楽に興味を抱くようになります。
民族音楽学研究・小泉文夫さんの講義を受けた際、その内容の深さにそれまでの音楽観の根底をくつがえされるような感覚を味わいます。
小泉文夫はぼくの音楽に対する態度に決定的に影響を与えた人です。
実は、音楽にとどまらず、あらゆる文化・人を、公平に見るということを教えてくれた人です。
小泉文夫の授業に参加し、個人的にも知り合えたことは、ぼくの人生の誇りであり忘れられない思い出です。
坂本龍一さんはさんはのちにこのように語っています。
大学3年生の時に結婚!ピアノ弾きのバイトで生計をたてる
坂本龍一さんはこの頃まだ、音楽の世界で何かができるとまでは思っていなかったようです。
大学3年生の時に結婚し、生活のために地下鉄工事の仕事(肉体労働)を始めるますが、親方から向いていないといわれて3日でクビになってしまいます。
その後はピアノの腕を活かし、酒場でピアノ弾きのアルバイトを始めました。
ピアノ弾きのバイトは時給が良かったのですが、自分にとって大切な音楽で安易にお金を稼いだことが今でもトラウマになっているのだとか。
スタジオミュージシャンとして活動!細野晴臣&高橋幸宏との出会い
1974年大学を無事卒業した坂本龍一さんは、同大学院音響研究科修士課程に進学します。
大学院在学中の1975年に新宿ゴールデン街で「和製ボブ・ディラン」の異名をもつ友部正人さんと意気投合します。
1978年には細野晴臣さんのソロアルバム「はらいそ」に参加し、そこで初めて高橋幸宏さんと出会ったのでした。