「雨の慕情」など日本レコード大賞を受賞、大賞以外でも「舟唄」「なみだ恋」「もう一度逢いたい」などレコード大賞では歌唱賞や金賞を数多く受賞し、最近はジャズ・アルバムもリリースしている八代亜紀さん。
スタイル抜群で美人と評判な八代亜紀さんの若い頃について調べてみました。
目次
八代亜紀の若い頃の身体のスタイルが抜群だった!?画像を探してみた!
1950年8月29日に熊本県八代市に生まれた八代亜紀さん。
芸名の由来は出身地の八代市からつけられています。
学生時代はバレー部に所属し、八代市立第六中学校を卒業後、地元でバスガイドになりますが、数ヶ月で退職し、お父さんの反対を押し切って上京。
歌うことが好きだった八代亜紀さんは、クラブ歌手になったきっかけについて、
一流はクラブで歌うのだと思い込み、私もそうならなきゃ!と決心したの。
友人に連れられて行った地元のキャバレーで年齢をごまかして歌って、フロア中に私のハスキーな歌声が広がった途端、騒がしかったお客さんやお姉さんたちがスッと立ち上がって、フロアに出てきてダンスを始めたの。
キャバレーで歌い始めて、3日目で父にはバレましたけどね。
スポンサーリンク「不良はいらん」とものすごく叱られて勘当されました。
それで東京へ出てきたの。
と、歌手としてデビューするためには、クラブで歌うものと思っていたそうです。
15歳のときに銀座のクラブで歌手として活動しています。
若い頃はこんなに美人でかわいい!10代~20代やデビュー当時の写真をチェック!
1971年、21歳のときに「愛は死んでも」でデビュー。
デビューする前は本人いわくとても生意気だったそうです。
銀座で歌っていると、いろんな人がやって来て「レコードを出しなさい」と言われるのだけど、「クラブシンガーは一流だから!」と全然相手にしなくて、すごく生意気だったの。
一流の歌手はクラブで歌うものと思い込んでいたのですが、一緒に勤めていたお姉さまがたに、
「レコードを出さないと、その人たちに歌は届かないんだよ」と言ってくれて、ハッと我に返ったんです。
それでレコードを出すには芸名を考えなければということで、八代亜紀が生まれました。
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というのがデビューのきっかけだったそうです。
デビュー当時はアイドル歌手のようにかわいいです。
あまりに美人すぎてハーフの噂も浮上!ハーフ説はデマです
八代亜紀さんは日本人離れした美人だったので、ロシア人のハーフという噂があったそうです。
ただ実際にはデマで父も母も日本人です。
母は橋本タミ子さんという名前で、1991年に母・タミ子さんは「亜紀、夢をありがとう」という著書を執筆しています。
お父さんは八代亜紀さんが12歳の頃に会社を作ったのですが、とても苦労されていたそうです。
それで苦労させないようにとクラブで働くようになったと八代亜紀さんはインタビューに答えています。
スタイルのよさは現在も
若い頃からスタイルのよかった八代亜紀さんですが、美容に関する著書「舟唄ビューティー」を出されたこともあるくらい、68歳になった今でもスタイルのよさと豊満な胸が評判です。
豊満な胸については、親友の森昌子さんと共演した際に、
先輩の八代亜紀から「会うたびにおっぱいを触るのをやめてほしい」とクレーム。
八代と会うたびに森は胸を揉んだりステージ衣装のドレスをめくるなど、「とにかく子供みたいないたずらをしてくる」のだという。
と子供のような森昌子さんにクレームをつけたそうですが、
これに対し、森は「実は亜紀さんも待っているんです。口ではそう(やめてほしいと)言っているんですけど、『またこたん、またこたん』と寄ってくるんです。
一応ハンカチを(胸の)前に持っているんですけど、私はそれをどかしてベロ〜ンと(触る)」と笑顔で語る。
さらに八代の胸を「柔らかいの」と絶賛。
というくらい二人の仲のよさといくつになっても女子のようなトークをしています。
八代亜紀さんの若い頃について調べてみました。
デビューのきっかけなど、壮絶な形ですが、スタイル抜群で美人と評判、さらに演歌界の歌姫と呼ばれるほどの歌唱力が今でも芸能界で大活躍している理由ではないでしょうか。
ジャズに挑戦したり、絵を描いてみたりとますます元気な八代亜紀さんの今後にも期待です。