今回は歌手・華原朋美さんの若い頃についてみていきましょう。
華原朋美さんの若い頃が可愛いという情報や、現在と若い頃を比較してみました!
華原朋美の若い頃について
華原朋美さんといえば最近待望の第一子出産ということで話題になっていますよね。
デビューから現在まで波乱万丈な人生を送っていた華原朋美さんですが、半生を写真で振り返っていきたいと思います。
華原朋美の若い頃の画像
華原朋美さんはデビュー当時、どちらかというと可愛い系統で人気でしたよね。
ブレイクしたての画像をみると、あどけなくてとても可愛らしいです。
デビュー時は遠峯ありさという名前で活動しており、小室哲哉さんプロデュースでデビューした1995年6月まではその名前で活動していました。
華原朋美の若い頃の活躍
華原朋美さんは伝説的アイドルだった中山美穂さんに憧れて芸能界を目指すようになり、1990年、高校1年生の時にオスカープロモーション主催の「全日本国民的美少女コンテスト」に応募します。
しかし本戦に参加するための事前親子面談のときに母親に芸能界入りを反対されたため、本戦には出場できなくなってしまいました。
その後は芸能事務所からスカウトの電話が頻繁にかかってくるようになり、高校3年生の時に吉野家でスカウトされたこともあったとか(笑)
そのときすぐに芸能界入りはせずに山野美容専門学校に進学します。
その後もたびたびスカウトされ、だんだん芸能界への強い憧れを抱くようになります。
なんとか親を説得し、通っていた美容学校を中退し、芸能界入りを決意します。
1993年「さんまのナンでもダービー」のレギュラーアシスタントとなり、その後はタレント活動がメインになります。
番組「茶屋町学園」のオーディションがきっかけとなり、雑誌「MABU」の巻頭グラビアとなります。
それ以降はグラビアとして「プレイボーイ」など男性雑誌に登場するようになります。
華原朋美さんは当時を振り返り、「この頃はグラビアで水着ばっかり着てたなぁ」と語っています。
このとき受けていたオーディションはほとんど不合格となってしまい、なかなか芽が出なかったようです。
小さな仕事をコツコツこなしていた1994年、売れていない女性アイドルたちが集合していた深夜のバラエティ番組「天使のU・B・U・G(うぶげ)」にもレギュラー出演することになります。
華原朋美さんは当時かなりイケイケなキャラで、ひときわ存在感があり、がんばって番組を盛り上げていました。
そんな華原朋美さんを見た音楽プロデューサーの小室哲哉さんは、ぜひ華原朋美さんに会ってみたいといいます。
小室哲哉さんが当時青山で経営していたお店『TJM』に、『天使のU・B・U・G』の番組プロデューサーとともに華原朋美さんを呼んだそうです。
その後華原朋美さんの歌声を見初め、小室哲哉さんは『華原朋美』という芸名を決め、所属事務所も移籍し、『Keep yourself alive』で歌手デビューさせます。
オリコンチャート初登場8位となり、『渋谷の円山町のクラブのコンビニの前でしゃがんでいる女性』を表現したかったようです。
歌手デビューして一気に垢抜け、バラエティに出演してた時と印象がガラッと変わり、「カハラー」としてブレイクします。
華原朋美さんが2枚目に発売したシングル『I BELIEVE』がミリオンセラーとなり、一気にソロアーティストのトップとなります。
このときから小室哲哉さんとかなりラブラブな様子で、テレビでも交際をオープンにしていましたよね。
当時大物プロデューサーだった小室哲哉さんとお交際は、まさに『シンデレラストーリー』として話題になりました。
完全に歌手「朋ちゃん」を確立していったのですね。
華原朋美の現在と若い頃を比較
「遠峯ありさ」時代の華原朋美さんはグラビアアイドルとして活動していたこともあり、スタイル抜群で今とはまた違った魅力がありますよね。
小室哲哉さんプロデュースで歌手として成功し、プライベートでも交際するようになってからは大人の女性らしい雰囲気がありますね。
カリスマ時代と比べると現在は少し衰えているように思えますが、アラフィフとは思えない美しさを持っています。
小室哲哉さんとの華々しい生活も長くは続かず、1998年12月に、2人は関係にピリオドを打つことになります。
華原朋美さんは別れの理由を知らされず、突然自分の前から去っていったと語っていました。
この破局が原因で過剰に睡眠薬を摂取し、自殺未遂を繰り返すなどたびたび入退院をするようになってしまいます。
完全に精神が崩壊していった華原朋美さんを、マスコミたちは容赦なく報道していきました。
波乱万丈な人生を送っていった華原朋美さんですが、今ではすっかり回復して昔の可愛らしい姿をわたしたちに見せてくれています。
2019年には晴れて母親となった華原朋美さん。今後も幸せになってほしいですね!