今回は漫画家の赤塚不二夫(あかつか ふじお)さんの若い頃についてまとめてみました。
目次
赤塚不二夫の若い頃がイケメンでかっこいい!【画像あり】
赤塚不二夫さんは『天才バカボン』『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』など、数々の有名な作品を作った”ギャグ漫画の王様”と呼ばれる方ですが、若い頃がイケメンでかっこいい事は意外と知られていません。
画像とともに、そのイケメンぶりを見ていきたいと思います。
トキワ荘(手塚治虫さんを筆頭とした、マンガ荘とも言われたアパート)にいたときで、おそらく20歳前後の画像です。
当時、赤塚さんはトキワ荘一の美青年として認識されていたそうです。
近年では、『おそ松さん』好きの女性達からイケメンすぎると話題になっています。
『おそ松くん』のイヤミのギャグ、『シェー』を披露する若い頃の赤塚さん。
スーツ姿がよく似合います。
タモリさんと赤塚さん。
タモリさんの面白さを気に入った赤塚さんは、自分のマンションの部屋を提供し、ベンツを自由に使う許可を与えたうえ、タモリさんに月20~30万円のお小遣いまで渡していたそうです。
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赤塚さんは自分の番組にタモリさんを出演させて、その番組を黒柳徹子さんがたまたま見ており、タモリさんのテレビ出演につながっていったそうです。
赤塚不二夫さんの器の大きさがよく分かるエピソードだと思います。
赤塚不二夫の娘・赤塚りえ子は現代美術家、フジオ・ プロダクション社長!
赤塚不二夫さんには、前妻の登茂子さんとの間に娘がいます。
名前を赤塚りえ子さんといいます。
1973年、8歳の時に両親が協議離婚し、りえ子さんは赤塚姓のまま母親に引き取られて育ちました。
親権は母親ですが、赤塚姓のままだったので『赤塚りえ子』ということのようです。
りえ子さんは1998年、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジファインアート科に入学しました。
在学中から展覧会に参加するなどアートに情熱を注ぎます。
2001年、同科の卒業制作展でギャラリーにスカウトされ、それ以降、現代美術家として国内外で活躍しています。
赤塚不二夫さんの影響と遺伝なのでしょうか、漫画家と現代美術家でジャンルは違いますが、りえ子さんも絵に携わる仕事をしています。
りえ子さんは2006年に帰国、株式会社フジオ・プロダクション代表取締役に就任しました。
赤塚りえ子さんは、現代美術家とは別に、『フジオ・ プロダクション社長』という顔も持っているようです。
娘・赤塚りえ子の結婚歴が気になる!現在はイギリス人と結婚して英国在住!?
現在53歳になる赤塚りえ子さんですが、結婚歴が気になります。
りえ子さんは、唄啓劇団のスポンサー会社の社員用施設でアルバイトとして働いていた24歳の時、同社の新入社員と親しくなり結婚しました。
しかし、結婚から3年後に離婚しています。
24歳の時に結婚していたんですね。
離婚後にイギリスに留学してアートを勉強し、現代美術家になったということのようです。
留学先では素敵な出会いがあったようで、知り合ったイギリス人男性と再婚しています。
りえ子さんは2002年、当時37歳の時にイギリス人男性と再婚しました。
お相手は、当時34歳であったジョン・レイトさんという情報があります。
出会ったきっかけは、留学先の英語の先生だったそうです。
そして、りえ子さんが40歳の時にイギリスの永住権を獲得しました。
赤塚りえ子さんが現在住んでいる場所ですが、厳密にはわかりませんでした。
イギリスの永住権を獲得しており、旦那もイギリス人なので、基本は英国在住だと思います。
ただ、『フジオ・ プロダクション社長』『現代美術家』という側面もあるので、日本や海外での活動を考えると、年中ずっとイギリスにいるわけではないと思います。
赤塚不二夫は2008年に死去。死因は肺炎だった。闘病の経緯を振り返ってみよう!
数々の作品を世に送り出した赤塚不二夫さんですが、2008年に死去しています。
直接の死因は肺炎ですが、晩年は様々な病気と闘い続ける日々だったようです。
闘病の経緯を振り返ってみたいと思います。
・食道がんと診断(余命2年半と宣告、1997年)。
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・放射線治療と民間療法を併用。
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・食道がんが悪化、手術する(1999年)。
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・毎月、アルコール依存症治療に通う。
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・急性硬膜下血腫(2000年)。
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・脳内出血で手術(2002年)。
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・肺炎により死去(2008年、72歳)。
過度なアルコールとタバコの摂取が病気の大きな原因のようですが、やめるのは難しかったのでしょう。
赤塚不二夫の死の3日前に前妻が病死していた!
赤塚不二夫さんの最期を看取ったのは、妹さんと赤塚りえ子さんだそうですが、赤塚不二夫さんが亡くなる2年前には2番目の妻である赤塚眞知子さんが、3日前には前妻の登茂子さんがそれぞれ亡くなっています。
夢で赤塚不二夫さんに『死んではいけない、りえ子、生きなさい』と言われ元気を取り戻したといいます。
両親を立て続けに亡くして、りえ子さんはかなりショックを受けますが、夢で赤塚不二夫さんが励ましてくれたそうです。
告別式ではタモリが弔辞を読み上げる「私もあなたの数多くの作品の一つです。」
告別式では、赤塚不二夫さんによってその才能を見出されたという、タモリさんが読み上げた弔辞が話題になりました。
タモリさんの弔辞は、約8分にも及びました。
その内容ですが、赤塚さんのマンガ作品との出会いから上京後に始まったつきあいを振り返るもので、『私はあなたに生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません』『しかし、いまお礼を言わさしていただきます』『私もあなたの数多くの作品のひとつです』という、とても真面目で思いのこもった内容でした。
実は、手にした紙は白紙で『勧進帳(歌舞伎の演目)』だったようです。
勧進帳を選んだのは、タモリさんのマネージャーと勧進帳に出てくる人物の名前がどちらも”トガシ”であるというギャグですが、きっと赤塚不二夫さんへの最後のメッセージとして、自分の”芸”をみてもらいたかったのではないでしょうか。